離脱

思ったことを書いてそのあと取りまとめます。

他人もまた人間である

恐ろしく他人への理解が浅い人間がいる。他人もまた自分と同じ人間であり様々な思考や感情が渦巻いていることが理解できない人間のことである。

人間は他人の心情が理解し、それを尊重するべきだといっているわけではない。むしろ人間は他人のことを理解することは出来ないと考えている。理解できないからこそ理解しようと努め、少しでも他人の意思を尊重すべきだといっている。そしてそうすることが自分の存在が他人からも尊重されるために必要であると考えている。

僕の経験では他人への理解が浅い人間というのは、むしろ人間はわかり合えると思っている人間であることが多い。例えば人間をカテゴリ分けして、そのカテゴリに属する人間の一般的な特徴をして、その人の特徴と考えてしまうような思考パターンに陥っていることが多い。あなたは○○だから△△な性格だよね、とかそういう言い方が鼻につく。そうやって他人をわかったつもりになって、それから認識が改まらない。

他には、他人は自分と同じ価値観や考え方を持っていると思いがちだったりする。だからやたらと他人に共感したりするし、逆に自分に共感してくれない、もしくは自分の感情を理解できない人間を非難したりもする。理解できると考えるからこそ、自分に理解できない価値観や考え方があることが想像できないし、それを見つけた場合には異質なものとして排除しようとする。

そして自分の価値観や考え方を人に押し付ける。他人が同じ価値観や考え方を持っていると考えている以上、当然のように他人もその価値観や考え方をもとに行動していると理解してしまう。そのために他人の行動の理由を勘違いして、ろくでもないことをしてしまうことが多い。「あなたのためを思って○○した」と言うとき、それは大体「あなたのため」になっていないことが多い。何があなたのためになるかを理解できない以上、人のために何かをするなんて到底無理である。人のためにした行動が、本当に人のためになる場合、それは単に幸運にもその人が自分と近しい価値観や考え方をしていただけである。

いつも思う。人が他人のことを理解しようとするのは非常に大変であり、そして理解し合えることなど永久に訪れないと。だが諦めてしまうと困ることも多い。人間は一人で生きていくのが非常に困難だからであり、共同は不可欠だからだ。

他人にして欲しいことは伝える、他人になにかをするときはして欲しいと言われたことをする。変に他人の心を読まず、きちんと言葉でコミュニケーションするしかない。ただただコミュニケーションを諦めない、それ以外に方法はない。他人への理解とはそういった地道なコミュニケーションからのみ生まれるものであり、自分の頭のなかで考えて理解できることはない。それは単なる自分の延長線上でしかない。

コミュニケーションのコストは甚大であるが、それを払うことを諦めてしまえば身勝手な人間の出来上がりである。身勝手な人間のせいで今僕の人生はハチャメチャになろうとしている。気を付けたい。

 

ちなみに社会の諸制度はこのコミュニケーションコストをいかに圧縮するかと言う観点で作られていることが多い。会社内の訳のわからないマニュアルや申請のルールから、常識や社会制度、伝統などおおよそのものがコミュニケーションコストの削減のために使われていたりする。これは社会で暮らしていくためには必要なものであると同時、我々の他者への理解を阻害するものでもある。いわば必要悪と言うやつだろうか。