離脱

思ったことを書いてそのあと取りまとめます。

午前5時のやよい軒

午前5時。多くの人はまだ眠っている時間かもしれない。僕の会社は始業が9時のため、こんな時間に起きる必要はないのだが、ここ数年朝までぐっすり眠れないことが多く、朝早くに起きてしまうことも多い。もちろん5時頃に起きることもある。

この5時というのは僕だけにかぎらず、一部のひとにとって特別な意味を持つ。それはやよい軒が朝食の販売をはじめる時間である。

やよい軒の朝食メニューは3種類ある。納豆朝食、目玉焼朝食、銀鮭朝食である。ちなみに僕は目玉焼朝食しか食べたことがない。

さて実際朝5時過ぎにやよい軒にいってみると思いのほかお客さんが入っている。僕のようなデスクワークのサラリーマンとは違う生き方をしている人が多くいるということなのだけれど、一方で労働とは無縁そうなご老人のかたも多く見かける。

よくよく考えると時間を問わずやよい軒店内でご老人の姿をよく見かける。ただ昼間はやはり若者や中年が多く目立っていないというだけで、安価な外食チェーンを利用するというご老人というのは結構いる。

この前佐々木俊尚さんの記事でもにたようなことが書いてあったと思うけれど、外食店がひとつの生活インフラとして機能しているのである。これは地方都市関わらず起こっている現象と思われる。僕が子供の頃の老人の暮らしと現代の老人の暮らしは結構違ったものになっているのである。僕が生きた狭い範囲の話ではあるものの、僕が子供の頃はご老人が外食しているところなんて見たことがなかったと思う。そもそもいまと昔で外食が持つ意味合いというのは大きく変わっているのだと思う。

別段これといった結論もないけれど、ただただ非常に興味深い。

そういえばこの事で思い出したことがある。昔旅行していたときに訪れた静岡の山奥の集落は、駅とホテルが一体化していて、そこにある売店が地域の憩いの場になっていた。駅の待合室兼ホテルのロビーで売店で売っているカップヌードルをすすったり、その集落のおばあちゃんたちと談笑したりした。集落のサイズは歩いてほとんどカバーできる。電車に乗るまでの待ち時間だったり、ただ何とはなしに来てみたりだとか、入れ替わり立ち替わりいろんな人が出入りしていた。駅や商店が随分と自然にコミュニティの場として機能していた。面白かった旅の思いでのひとつである。

やよい軒のような外食チェーンがそういったコミュニティの場として機能する未来がどこかにはあるのかも知れない。