離脱

思ったことを書いてそのあと取りまとめます。

限界集落と集団X

山奥ニートの方々の活動をTwitterでたまに見る。山奥ニートとは人口8人の限界集落に集まって暮らすニートたち15人の総称である(はず……)。具体的な活動については検索すれば、彼らのblogやインタビュー記事などで読めるので詳細はそちらを参照されたい。

労働が身体に悪いと考えている僕としては、彼らの生き方は非常に魅力的である。いまの仕事をやめたら一度彼らのもとを訪れてみたいと思っている。

今回冒頭の文章に彼らを据えたのは個人的にかなり興味を持っていることも少しはあるのだけれど、彼らの活動から得たひとつの着想について書き留めておきたいと考えたからである。

その発端は大学時代にまでさかのぼる。

大学4年生、卒業製作の真っ只中、僕の友人は限界集落をテーマに製作に励んでいた。彼のテーマは限界集落をどう再生させるか……ではなく、どうやって終わらせるのかをテーマにしていた。当時の僕には終わらかたなど到底思い付くはずもなかった。

けれど年を経るごとに限界集落についての報道は増えている。そしてその大半は再生に関してではなく、あまりよくないニュースとして取り上げられている。人口減少期の入り口にある日本では、限界集落の再生なんぞは夢のまた夢で、なくなってしまう集落の方が多いのである。つまり限界集落に関して必要なのはどう再生するかではなく、どう終わらせるかを考えることなのだと言える。もちろん再生できるに越したことはないが、それを望めるのは限られた一部の集落だけである。

限界集落なんてなくなってしまっていいじゃないか、ルーツをたどれば元は落武者集落みたいなのも結構あって

、そもそも人がすむような場所じゃない」なんてことを言っているのを何かのトークイベントで聞いたことがある。確かにそういう考え方もあろう。ただ実際に限界集落に住む人が引っ越しを余儀なくされたり、孤独死してしまうのは紛うことなき悲劇であり、避けるべき事態である。限界集落の終わりが悲劇になるのは悲しい。僕の友人はそういうことを考えていたのだろう。

そこで山奥ニート……正確には山奥ニートに着想を得た流浪の集団Xとでも言うべき存在の登場である。定職を持たず、畑を耕したり、狩猟をおこなったり、あるいは町に出稼ぎにいったりして生活を成り立たせる彼らが限界集落の一員になったとしよう。

彼らが現れることで集落の人口は増加する。集落の人と関わりを持てば、孤独死を防げるかもしれない。それどころか生活に彩りを与えられることすらできるかもしれない。インフラ的な側面でも、利用者数が増えることで、少しでも不採算性が下がり持続性が増すかもしれない。

彼らが現れることで一時的に集落に新たな交流が生まれ集落が活発になるかもしれない。そしてもとから集落に住む人は自らが長年暮らした家で人生の終わりを満足に迎えられるかもしれない。

そして集落に住む人が集団Xのみになったとき集団Xはその集落を去り、集落に終わりを告げる。そしてまた別の限界集落を求め流浪するのである。

こんな着想を得たのである。限界集落の終わりを悲劇から救い出す集団X、こういったアイデアいかがだろうか。