離脱

思ったことを書いてそのあと取りまとめます。

踊れない人間の躍り

モヤモヤとした感情を言葉にすることでスッキリすることがある。自分の感情を何か他の形で表現することで、新しく何かを発見出来たりすることもある。

モヤモヤしたものに形を与えることで、そのモヤモヤの解像度をあげより事細かに中身を見ていくことができる。分からないものをわかる部分とわからないところに分別する。分かるの語源は分けるである。

形を与えるツールは必ずしも言葉だけとは限らない。絵やメロディ、リズム、ダンスなど言葉でなくてもモヤモヤとしたものに形を与えることができる。

こんなことを思うのは、数年前に招かれたフランスの学校の期末パーティーを思い出したからだ。

そこではバンドやDJが延々と音楽を奏でていた。そこで驚いたのは学生たちの躍りである。世の中には色々なタイプのダンスがあるというのは知っていたが、学生たちは自然と様々なダンスを音楽やその時の気持ちに合わせて躍り分けていた。ときには男女ペアで踊ることもしていた。

ダンスの教養など全くない自分にとって当たり前のようにペアでダンスを踊れる彼らはただただ驚きでしかなかった。

自分はただ音楽に合わせて体を揺らすことしかできなかった。

もしダンスの教養があり、自らに感情に合わせて様々な振りを使い分けられたらもっともっと音を楽しむことができたのではないかと思う。

ただ音を聞いて楽しいという漠然とした感情が躍りという形を通じて表されることで、その楽しいという感情の解像度が高まり、より細やかで繊細に自分の感情をとらえられたのではないだろうか。

言葉にすることで感情がより細やかに見えてくるように躍りによっても感情がより細やか見えてくることがあると思う。ただ単に楽しいという気持ちから、その微妙な楽しさの違いに気づきその細やかさを楽しめるようになるのではないだろうか。

自分の感情を表現できるツールは多く持っておきたいと思う今日この頃である。