企業に所属するのをやめる
企業を辞めて一人で事業を始める体制が整いつつある。といっても僕自身の能力が事業を一人で回せるかと言われると少々怪しい。ただ、いろいろな流れがここにきてそういう方向に向かいつつあるのである。
法人を立てるのか個人事業主になるのかはよくわからないが、これからは今までと違った生き方が展開されるようだ。一年程度は収入が途切れないような仕組みにはなっているので、その間に着実に体制を整えようと思う。
さてどうなるやら。
言葉に気持ちはのっているのか
急遽夜行バスに乗らなければいけなくなった。久しぶりの夜行バスである。人生初の3列座席バスではあったが、前後がきつくて結局不快さ具合はこれまでのバスとは変わらなかった。
その日バスの乗客のなかに足の不自由な方がいた。どうやら松葉杖を常用しなければ移動がままならないようだった。
ただでさえ生活しづらいというのに、何故わざわざこんな窮屈なバスに乗車しなければいけないのだろう。お金のことを気にせず新幹線にのれるくらいに社会から支援を受けられれば良いのにと思った。でもそうはいかないようだった。
3列といってもバスのなかは窮屈で、更に乗車の際には座席までいくつかの段差を超える必要がある。乗務員の介助を受けながら彼が奥の席に進んでいくのを乗客みんなが見守っていた。
彼は誰かに助けてもらう度に「ありがとう」と感謝の言葉を口にした。よく耳にする言葉ではあるが、ここまで感謝の気持ちを感じられる「ありがとう」を聞いたのは人生ではじめてだった。
言葉で人の本心を伺い知ることはできないが、その感謝の言葉は僕に彼が本心から感謝していることを伝えるには十分だった。彼はこれまでの人生のなかで人に助けてもらえるというありがたさを痛感しているのだと思う。
自分はここまで謝意を込めた言葉を言えたことがあるだろうか。むしろ、ここまで真に迫った言葉を放てるほどに人に感謝したことがあっただろうか。普段からありがとうありがとうとよく言うが、本当に心の底から有り難いと思ったことが今までにあっただろうか。
この世は人の好意なしでは成立しない。まさに有り難い好意の連続でこの世は成立している。そのありがたさを自分は本当に自覚しているのだろうか。自分一人でも生きていけるとどこかで勘違いしていないだろうか。
自らの浅はかさを感じさせるバス旅行の始まりであった。何故彼がそんなに大移動をしなければいけなかったのかは全くもってわからないが、彼の旅もまたよい旅になっていることを祈っている。
備忘:GAの流行る建築展
気になったところを抜粋するが、課題の次元をどこに設定しているかがそれぞれにより異なる。大きく設定するところもあれば、小さく設定するところもある。
細かく分析もしてみたいがいかに。
TA
P.82 今は「できる限り」が、何か想定できる範囲のことになっていますよね。…(中略)…本当にそうなのかなと思うんです。私が仕事を始めた一九六〇年代は大企業も本土なく、…(中略)…みんな夢と希望をもって手探りでやりたいことを考えていた状況を見ていました。
P.83 「想定内のことなんてない、意思があればこういうことも可能なのか」ということを、見てもらいたい。
P.84 「挑戦」してきたことを、年代別などでなく、テーマごとに見てもらおうと考えました。
KK
P.86 自らのスタイルを模型や図面、写真でプレゼンテーションしたとしても、すべてインターネット上で検索可能な情報になってしまいましたから。
少なくとも「展覧会へ行ってみたい」と思わせるためには、インターネットでは得られない「体験」を提供するしかないんじゃないかな。
P.88 「建築展で何が可能か?」という問いに対して、「建築をフィッティングする貴重な機会」を提供するのが「パヴィリオン」なんだと思う。
特に最近は、インターネット上に提示されている様々な「建築の説明」に改宗されないように、「パヴィリオン」をより純化させ、先鋭化させています。
P.89 期間が限定されている展覧会は、独特のぎってぃんぐスタイルを提示する絶好のシステムと言える。
SF
P.94 ある時に、展覧会には個別に作品を見る体験と全体を見渡す体験の両方があることに気づいたのです。
YH
P100. アートの場合、鑑賞者は自分の基地と結びつけます。…(中略)…だからこそ全く未知のヴァナキュラーなテイストなどは最初受け入れられません。アートには一つのバリアがある。受け入れやすさでいえば、音楽が一番早くて、その次が建築。
展覧会にメイキングという概念を持ち込む理由は、追体験からその先をどう考えていくかにつなげていきたいからです。
日本の展覧会フォーマッタは、もともとは新聞社がいろんな場所やデパートを借りて、博覧で見せるというやり方でした。新しいものを紹介する意識があったのだと思いますそれは展覧会の本質の一つであることは変わっていません。
KH
つづくか?
君は水素の音を聞いたか?
最近もっぱらyoutubeを見ている。
布団のなかでなにもする気力がなくても、指先ひとつで色々な映像コンテンツに触れられるのだから、ただただ布団にくるまって気になるサムネイルをクリックしてはボーッと動画を見てしまう。
ここ最近(?)は同じ動画サービスのニコニコ動画のコンテンツも転載されたりもしており、相互に人の流入が見られる(youtuberの動画がニコニコに転載されyoutuberの人気に火がついたりなど)。
そんななかニコニコから人気に火がついた水素の音なる動画がYoutubeに転載されていた。どうやらTwitterでもトレンド入りを果たしたらしい。詳しくは以下の動画と解説ページを見てほしい。
http://dic.nicovideo.jp/t/a/水素の音
もちろん僕は水素水なる怪しげなものは全く信じていないし、今後積極的に関わろうとも思わないのだが、動画内の二人の心底嬉しそうな姿には羨ましさを覚えないではない。もちろんこれはあくまで商業的なCMであって彼らが心のそこから水素水のご利益を信じているとは思わないのだが、あの動画のなかには人が心のそこから善と信じるものに触れられたときに湧き上がる喜びの気持ちのようなものが表現されているように思う。
あの動画を見たとき彼ら(とあの動画を成立させてしまう社会)に愚かしさを感じつつも、果たして自分にとって心のそこから善と信じられるようなものはあっただろうかと疑問を感じてしまう。
なにもかも信じられず、ただ鬱々と日々を過ごしてしまう自分よりも、自らが信じるものに喜びを感じられる彼らの方がよっぽどハッピーで高尚なんじゃないかと思ってしまう。
僕にとって水素の音は福音にはなり得ないが、いつか僕の人生に福音が響くことを期待しようと思う。
しょぼい喫茶店にいった
いま一部界隈で話題のしょぼい喫茶店にいった。
しょぼい喫茶店の来歴自体はここ(http://eraitencho.blogspot.jp/2018/01/blog-post_15.html?spref=tw&m=1)にまとまっているので確認してもらえればと思う。
僕自信も社会で働く適正がどうも低いらしく、生きづらさを抱えてしまっている。そういった人間にとって、しょぼい喫茶店の存在はひとつの希望である。しょぼい喫茶店がそこにあり、店長やスタッフの方がそこで暮らしていけるのであれば、自分もそうやって救われる可能性がゼロではないことがわかる。しょぼい喫茶店が存在し続ける限り、僕の希望の光は存在し続ける。そうして実際にそこにいってみれば何かしらあやかれる物があるのではないかと足を運んだのである。
しょぼい喫茶店はそういった人間たちの祈りや希望を受け止めるための場所であると思う。その場所にいけば常に自分が救われる可能性に触れられる。
踊れない人間の躍り
モヤモヤとした感情を言葉にすることでスッキリすることがある。自分の感情を何か他の形で表現することで、新しく何かを発見出来たりすることもある。
モヤモヤしたものに形を与えることで、そのモヤモヤの解像度をあげより事細かに中身を見ていくことができる。分からないものをわかる部分とわからないところに分別する。分かるの語源は分けるである。
形を与えるツールは必ずしも言葉だけとは限らない。絵やメロディ、リズム、ダンスなど言葉でなくてもモヤモヤとしたものに形を与えることができる。
こんなことを思うのは、数年前に招かれたフランスの学校の期末パーティーを思い出したからだ。
そこではバンドやDJが延々と音楽を奏でていた。そこで驚いたのは学生たちの躍りである。世の中には色々なタイプのダンスがあるというのは知っていたが、学生たちは自然と様々なダンスを音楽やその時の気持ちに合わせて躍り分けていた。ときには男女ペアで踊ることもしていた。
ダンスの教養など全くない自分にとって当たり前のようにペアでダンスを踊れる彼らはただただ驚きでしかなかった。
自分はただ音楽に合わせて体を揺らすことしかできなかった。
もしダンスの教養があり、自らに感情に合わせて様々な振りを使い分けられたらもっともっと音を楽しむことができたのではないかと思う。
ただ音を聞いて楽しいという漠然とした感情が躍りという形を通じて表されることで、その楽しいという感情の解像度が高まり、より細やかで繊細に自分の感情をとらえられたのではないだろうか。
言葉にすることで感情がより細やかに見えてくるように躍りによっても感情がより細やか見えてくることがあると思う。ただ単に楽しいという気持ちから、その微妙な楽しさの違いに気づきその細やかさを楽しめるようになるのではないだろうか。
自分の感情を表現できるツールは多く持っておきたいと思う今日この頃である。
くらしかたの話
ちょっとしたお誘いで集まりに参加してきた。集まりで出てきた話の内容が広い範囲にわたるものなので整理もかねてまとめる。
メインテーマは理想の暮らしを実現するための居住形態としてこれまでにないものを提案できるかといった内容である。居住形態とは単に賃貸か持ち家かといった所有形態の話だけではなく、リフォームできるかなど住まい手との関係性なども含む広いものである。
会では住まい手が深く関われてかつリーズナブル(低コスト)な選択肢がないという理由から事業計画をプレゼンしていた。
さてプレゼンターもおそらく理解のことと思うが問題は選択肢がないことではなく、選択肢が何故ないのかということである。因みに選択肢として全くないわけではなく、TEDxTokyoのプレゼンでも有名な青木純さんの営む賃貸住宅などは、住まい手が壁紙を選ぶことができるし、リフォームなども可能である。
おそらく選択肢として存在しないのは、そういった居住形態が商売として成立しにくくなってしまう、日本の市場構造や意識が存在しているのだと思う。地震台風などから来る住宅=仮の住まい的な考えはまさにそれである。これに起因して新築信仰や住居の資産価値の減少が発生していると思われる。青木さんのような試み自体は広がっていくと思われるが、この路線が拡大していけば結局この日本人の住まい感にぶち当たることになると思われる。そしてこれは地震が絡む限りは単なる意識改革だけで越えられるものではないと思う。
ここで出るのか第二の分水嶺……続く