離脱

思ったことを書いてそのあと取りまとめます。

伝統工芸って時点でそもそもヤバイ

やりたいことリストに京都の伝統工芸界隈と関わりを持つみたいなことが書いてあるのだけれど、ここ数年はその目標が満たされつつある。

日本国内をうろうろ旅行していたときに、途中から意識して伝統工芸品をみるようにしていたのだけれど、その言葉が指示する範囲が広すぎて、その正体はなんともつかみきれんなぁという印象であった。

ちなみに工芸品のなかで僕にとって最も魅力的だったのは竹工芸である。掛川資生堂で見た飯塚小玕齋(https://www.nihonkogeikai.or.jp/works/930/?kokuhou_flag=1)の作品群は見事であった。

界隈と関わりを持つにつけて伝統工芸について考える機会は多くなってくるのだけれど、やっとこさ自分なりに正体が見えてきているような気もしている。

まずもって伝統工芸は昔のある時点では伝統でもなんでもなく一般的に普及した技術であったと考えられる。もちろんピンきりではあると思う。友禅が高級品であることは今も昔も恐らく変わっていない。ただその技術の根幹は広く共有されていたはずである。高級品と一般普及品の作り方は共通する部分を多く持っていたはずである。一般普及品に何らか追加の手間をかけることで高級品たらしめていたとおもわれる。

ただし技術は進化する。特に産業革命以降の技術の進化はそれまでの進化とは異質であったと思われる。多くの手仕事の技術は機械化出来るように変形されていく。機械は生産したいものの基本的な価値を毀損しないように設計される。布であれば布としての必要最低限の機能は担保されるように機械を設計する。そして手でも機械でもほぼ同様の価値を作り出せるのであれば当然機械化される。

一般普及品は当然必要最低限の機能だけを満たすようなものだから当然機械生産に切り替わる。その他機械化出来そうな付加価値をつける技術についても機械化がなされる。機械を使うことを前提とした新たな産業構造が生まれる訳である。ただ機械では再現できない付加価値をもった技術も少なからずある。これらはこれまでの手仕事をベースとした産業構造の上に乗っかっている。しかしこの手仕事をベースとした産業構造の裾野はすでに機械をベースとした産業構造に移り変わっている。それまで高級品は一般普及品の裾野の上に乗ることで安定していたが、裾野が一気になくなってしまうから、自分だけで自分を支えなくてはいけなくなるのである。それまで一般普及品でも高級品でも使っていた道具が高級品でしか使わなくなる。当然そのコストはすべて高級品だけで支えなくてはいけなくなる。これまで以上に製造費は上がる結果となる。まわりまわって産業構造は維持できなくなる。

こうして伝統工芸が出来上がる。

つまり伝統工芸とは機械化出来ないorする価値のない技術が特徴の、自身だけでは産業構造が維持できない産業のなれの果てである。そして機械化出来ない技術というのは、その製品の主要機能にはほぼ関係のないおまけのようなものが大半である。どうしても必要であれば機械化の努力もなされるだろうし、手仕事ベースであっても産業構造を維持しようと努力がなされるはずである。そうなると保護する必要もないし、わざわざ大層に伝統と名をつけるまでもない。

今伝統と名のついている工芸技術の大半が、多くの人にとってはどうでも良いわずかな違いしか産み出さないものだと思われる。そうなるとどうするか。

ひとつはその違いが大変重大なものであると消費者を教育するパターン。

もうひとつはその違いをどうにか意味のあるレベルまで際立たせようとするパターン。

前者はよくメディアを通じて為されているのを見かける。非常に興味深い、勉強になるなと思うことも多いが、一方でそれホント?バイアスかかってない?とか思ったりすることもある。これが他の客観性を著しく欠くような世界観と合わさると尚更たちが悪い(例えばオーガニック大好き自然至上主義みたいなの)。

後者は所謂伝統工芸展で見られるような超高級路線である。達人的技巧を極めた再現性のない一点物のアートになっている。これは広く一般に普及できるような代物ではない。

特に結論はない。少なくとも今の世界に広く普及した価値基準では伝統工芸は伝統工芸のままでしかあり得ないんだとおもう。深夜の勢いで書いたので論旨が整理されておらずトートロジーになっている気がしないでもないが、そのうち整理する。幅広く伝統工芸って何ってやったところで個別の技術について取り上げない議論は特に意味がないとも思う。