離脱

思ったことを書いてそのあと取りまとめます。

「マニエリスト」の誕生

マニエリスムというのはルネッサンスの後期に現れた美術の様式のことである。その語源はマニエラ=手法である。

ルネッサンスとは言わば古典主義のことで、ギリシア時代の芸術美術こそ至高とする立場のことである。そしてルネッサンスラファエロによってひとつの頂点に達したと皆が感じた後にマニエリスムが生まれたとされている。目指すべきものが設定され、それが完成された後ではもはややることがなくなってしまう。となると本来は単なる手段でしかなかった手法に凝りだすしかなくなるわけである。こうやって生まれたのがマニエリスムということらしい。

学生時代はテキストでこの説明をよんで、いつも「わからん」となってしまっていたのだが、年を経るごとにこれが適切な例えなんじゃないかと思うものが出てきたのである。いわば「縛りプレイ」こそ適切な表現なんじゃないかと。

クリアしてしまったゲームをどうやって楽しむのか。例えば道具使わないでクリアとか、勇者一人旅みたいなやつである。

目標は決まっている。

一度クリアもした。

じゃあどう楽しむか?

「縛りプレイ」である。

特殊な技法で目標をクリアすることに意義を見いだしていってしまう。どうやったところで魔王を倒して世界を救うという結果は変わらないのに。

マニエリスムの誕生とは結局のところ目標の再設定が出来なくなってしまったがために起こってしまったことと理解している。ルネッサンスが完成したと考えられた際に当時の人間にできたのは手法に凝るか目標を再設定することだったと思われるが、結局前者を選んでしまう。

どっちが良いとか悪いということもないが、世の人は同じものばっかり見ていると飽きるわけで、それが後の世のバロック新古典主義つまり目標の再設定へと繋がっていくわけである。

僕はこういう理解で以て「自ら目標設定ができずやたらと手法にこだわるだけ」の人間を「マニエリスト」と呼ぶようにしている。学術的な定義とは違うが自分のなかではしっくり来ている。

そしてこの「マニエリスト」更に進化する可能性を秘めている。目標の設定ができないということは、現状の目標を絶対不可侵のものとしそれ自体に思考を巡らせることをやめてしまうことでもある。結局あってもなくても一緒であれば、いずれ目標は忘れ去られ、ただ手法だけが残る。形骸化された目標と形骸化された手法、形式主義者の誕生である。ただただ形式に則ることだけを至高とし、それ以外考えない。これらのものも含めて僕は彼らを「マニエリスト」と呼ぶ。

 

 

他人もまた人間である

恐ろしく他人への理解が浅い人間がいる。他人もまた自分と同じ人間であり様々な思考や感情が渦巻いていることが理解できない人間のことである。

人間は他人の心情が理解し、それを尊重するべきだといっているわけではない。むしろ人間は他人のことを理解することは出来ないと考えている。理解できないからこそ理解しようと努め、少しでも他人の意思を尊重すべきだといっている。そしてそうすることが自分の存在が他人からも尊重されるために必要であると考えている。

僕の経験では他人への理解が浅い人間というのは、むしろ人間はわかり合えると思っている人間であることが多い。例えば人間をカテゴリ分けして、そのカテゴリに属する人間の一般的な特徴をして、その人の特徴と考えてしまうような思考パターンに陥っていることが多い。あなたは○○だから△△な性格だよね、とかそういう言い方が鼻につく。そうやって他人をわかったつもりになって、それから認識が改まらない。

他には、他人は自分と同じ価値観や考え方を持っていると思いがちだったりする。だからやたらと他人に共感したりするし、逆に自分に共感してくれない、もしくは自分の感情を理解できない人間を非難したりもする。理解できると考えるからこそ、自分に理解できない価値観や考え方があることが想像できないし、それを見つけた場合には異質なものとして排除しようとする。

そして自分の価値観や考え方を人に押し付ける。他人が同じ価値観や考え方を持っていると考えている以上、当然のように他人もその価値観や考え方をもとに行動していると理解してしまう。そのために他人の行動の理由を勘違いして、ろくでもないことをしてしまうことが多い。「あなたのためを思って○○した」と言うとき、それは大体「あなたのため」になっていないことが多い。何があなたのためになるかを理解できない以上、人のために何かをするなんて到底無理である。人のためにした行動が、本当に人のためになる場合、それは単に幸運にもその人が自分と近しい価値観や考え方をしていただけである。

いつも思う。人が他人のことを理解しようとするのは非常に大変であり、そして理解し合えることなど永久に訪れないと。だが諦めてしまうと困ることも多い。人間は一人で生きていくのが非常に困難だからであり、共同は不可欠だからだ。

他人にして欲しいことは伝える、他人になにかをするときはして欲しいと言われたことをする。変に他人の心を読まず、きちんと言葉でコミュニケーションするしかない。ただただコミュニケーションを諦めない、それ以外に方法はない。他人への理解とはそういった地道なコミュニケーションからのみ生まれるものであり、自分の頭のなかで考えて理解できることはない。それは単なる自分の延長線上でしかない。

コミュニケーションのコストは甚大であるが、それを払うことを諦めてしまえば身勝手な人間の出来上がりである。身勝手な人間のせいで今僕の人生はハチャメチャになろうとしている。気を付けたい。

 

ちなみに社会の諸制度はこのコミュニケーションコストをいかに圧縮するかと言う観点で作られていることが多い。会社内の訳のわからないマニュアルや申請のルールから、常識や社会制度、伝統などおおよそのものがコミュニケーションコストの削減のために使われていたりする。これは社会で暮らしていくためには必要なものであると同時、我々の他者への理解を阻害するものでもある。いわば必要悪と言うやつだろうか。

情報収集をしようという話

昔から嘘か本当かわからないような話は人を引き付けて止まない。古くは妖怪や怨霊などに始まり、最近は都市伝説や陰謀論など様々な形で我々の身の回りに存在している。

身の回りにある不思議を分かりやすく明快に説明してくれるこの類いの話は非常に魅力的であることはよくわかる。僕もこういった話を聞くのは大好きである。だがこれはあくまでフィクションを楽しむようにして聞いている。世の中そんな単純にできているわけがないし、それらの話には証拠と言えるものがおおよそない。

僕の場合。そんな話を信じるかどうかは自分次第だが、それを人に話すようなことはしない。聞いた人がそれを信じるかどうかも個人の判断によるものだとは思うが、人間というのは聞いた情報の吟味をあまりせず、すぐに信じてしまうようである。震災時のデマ情報など顕著である。

僕はあらゆる不確定な情報にたいしてそうありたいと心がけている。どんな情報がどこで人の判断を間違えさせるかわからないからである。そのため不確定な話のうち、自分の意思決定に影響を及ぼしそうな情報にたいしては裏をとるようにしている。そういう話は大体において一次ソースが明示されておらず、人から聞いたとかそんなんばっかである。自分の意思決定にか変わらなさそうなものは聞き流す。明らかにその人自身にも不利益をもたらしそうであれば訂正する。

出来れば話をする側も一次ソースを当たるようにしてほしいと思いつつも、なかなかしてくれないので自衛するしかないわけである。誤った判断が人の生活や命を奪いうるということを自覚してほしいと思う。少し憤りを感じることもある。

政治に熱いとか冗談では?

今時の若者は政治について話をしないなんて説教しているのをこの前見たが。引き合いに出されていたのは、60年代末の学生運動で、あの頃はみんな熱かったということだった。

わが母校でもそれなりに学生運動が盛んであったという。大学生の頃、母校の学生運動に関する当時の新聞記事や学生運動に関する文献をひたすら読んだことがあった。なぜこんなことをしたかと言えば、その当時ぼくは人が信念に基づいて行動するということがどういうことかを知りたかったからである……と言うか今でも知りたいと思っている。結局この行動は何ら成果を見せず終わってしまった。何も具体的に得るものはなかった。

ただ結局ぼくの中に残った印象は、当時の運動に加わった人の多くが信念を持っていなかったのではないか、世間的な熱に浮かされただけで何となく動いていただけではないかというものであった。裏で某党が介入していたことも文献として残っていたように思う。

当時の学生にとっては活動の理由足りうるものが現実のものとして感覚されていたとは思うが、それはぼくにはわからない。ただただ周りに煽られて幻影を見せられていただけなんじゃないかと思う。そこには周りに合わせようとする程度の信念だけがあり、大学のあり方について本気で考えていた人がどれくらいいたのか甚だ疑問である。

そもそもよく考えたら60年代末の学生運動は大学の自治に関わるものであって安保闘争とは大きく趣旨がことなる。それを政治的なものかと言われると微妙な気がする。そこを取り違える時点でなんか間違っている。

という事でいまの若者が政治について話をしないという指摘に対して否定はしないけれど、学生運動に加わっていた若者が今の若者より政治に対する熱量を持っていたと言われると、それは違うんじゃないかと言いたくもなる。今も昔も周囲に合わせているだけ。

 

物語で商品を売る極致

物の価値のことを考えるときぼくはいつもトレーディングカードゲームのことを思う。トレーディングカードゲームの代表例としてあげられるものにマジックザギャザリングがある(通称MtG)。カードの絵の格好よさに引かれてぼくも一度だけ買ったことがある。結局回りにやっている人がおらず、1パックだけ買ってそれでおしまいになってしまったが。

さてこのMtGのなかでも特にレアリティがたかく高額で売買されるカードもある。そのなかでもブラックロータスというカードは、安くとも数十万円で取引されるという。昔、親が息子の持っていたカードを勝手に売ろうとして、そのなかにブラックロータスが紛れており、オークションで高額の入札が相次いだというような話がニュースになっていたことがあったと思う。

なにも知らない人にとってはただの紙切れも、見る人が見れば極めて価値の高いものになる。ただの紙切れがトレーディングカードゲームのルールを通して見ると途端に価値の高いものに変貌するわけである。ぼくはここに物事も価値の本質の一端が垣間見えているように思う。

それはつまり、物事の価値は物事そのものではなくそれを取り巻く物語によって設定されるということである。そしてその物語を人が信じることで、ものに価値が生まれるのである。

結局ものに価値を持たせようとするためには、既存の物語に乗っかってその枠組みのなかで価値のあるものを作るか、新しい物語を作り出してそれを多くの人に信じさせることで新たな価値構造を作り出すかのどちらかになってくるのである。

 

 

伝統工芸って時点でそもそもヤバイ

やりたいことリストに京都の伝統工芸界隈と関わりを持つみたいなことが書いてあるのだけれど、ここ数年はその目標が満たされつつある。

日本国内をうろうろ旅行していたときに、途中から意識して伝統工芸品をみるようにしていたのだけれど、その言葉が指示する範囲が広すぎて、その正体はなんともつかみきれんなぁという印象であった。

ちなみに工芸品のなかで僕にとって最も魅力的だったのは竹工芸である。掛川資生堂で見た飯塚小玕齋(https://www.nihonkogeikai.or.jp/works/930/?kokuhou_flag=1)の作品群は見事であった。

界隈と関わりを持つにつけて伝統工芸について考える機会は多くなってくるのだけれど、やっとこさ自分なりに正体が見えてきているような気もしている。

まずもって伝統工芸は昔のある時点では伝統でもなんでもなく一般的に普及した技術であったと考えられる。もちろんピンきりではあると思う。友禅が高級品であることは今も昔も恐らく変わっていない。ただその技術の根幹は広く共有されていたはずである。高級品と一般普及品の作り方は共通する部分を多く持っていたはずである。一般普及品に何らか追加の手間をかけることで高級品たらしめていたとおもわれる。

ただし技術は進化する。特に産業革命以降の技術の進化はそれまでの進化とは異質であったと思われる。多くの手仕事の技術は機械化出来るように変形されていく。機械は生産したいものの基本的な価値を毀損しないように設計される。布であれば布としての必要最低限の機能は担保されるように機械を設計する。そして手でも機械でもほぼ同様の価値を作り出せるのであれば当然機械化される。

一般普及品は当然必要最低限の機能だけを満たすようなものだから当然機械生産に切り替わる。その他機械化出来そうな付加価値をつける技術についても機械化がなされる。機械を使うことを前提とした新たな産業構造が生まれる訳である。ただ機械では再現できない付加価値をもった技術も少なからずある。これらはこれまでの手仕事をベースとした産業構造の上に乗っかっている。しかしこの手仕事をベースとした産業構造の裾野はすでに機械をベースとした産業構造に移り変わっている。それまで高級品は一般普及品の裾野の上に乗ることで安定していたが、裾野が一気になくなってしまうから、自分だけで自分を支えなくてはいけなくなるのである。それまで一般普及品でも高級品でも使っていた道具が高級品でしか使わなくなる。当然そのコストはすべて高級品だけで支えなくてはいけなくなる。これまで以上に製造費は上がる結果となる。まわりまわって産業構造は維持できなくなる。

こうして伝統工芸が出来上がる。

つまり伝統工芸とは機械化出来ないorする価値のない技術が特徴の、自身だけでは産業構造が維持できない産業のなれの果てである。そして機械化出来ない技術というのは、その製品の主要機能にはほぼ関係のないおまけのようなものが大半である。どうしても必要であれば機械化の努力もなされるだろうし、手仕事ベースであっても産業構造を維持しようと努力がなされるはずである。そうなると保護する必要もないし、わざわざ大層に伝統と名をつけるまでもない。

今伝統と名のついている工芸技術の大半が、多くの人にとってはどうでも良いわずかな違いしか産み出さないものだと思われる。そうなるとどうするか。

ひとつはその違いが大変重大なものであると消費者を教育するパターン。

もうひとつはその違いをどうにか意味のあるレベルまで際立たせようとするパターン。

前者はよくメディアを通じて為されているのを見かける。非常に興味深い、勉強になるなと思うことも多いが、一方でそれホント?バイアスかかってない?とか思ったりすることもある。これが他の客観性を著しく欠くような世界観と合わさると尚更たちが悪い(例えばオーガニック大好き自然至上主義みたいなの)。

後者は所謂伝統工芸展で見られるような超高級路線である。達人的技巧を極めた再現性のない一点物のアートになっている。これは広く一般に普及できるような代物ではない。

特に結論はない。少なくとも今の世界に広く普及した価値基準では伝統工芸は伝統工芸のままでしかあり得ないんだとおもう。深夜の勢いで書いたので論旨が整理されておらずトートロジーになっている気がしないでもないが、そのうち整理する。幅広く伝統工芸って何ってやったところで個別の技術について取り上げない議論は特に意味がないとも思う。

他人をリスペクトしよう

僕の身の回りに恐ろしく人のやる気を削ぐ恐ろしい人がいる。人のやる気が削がれるのはどういった時だろうかと嫌でも考えるようになる。自分が仕事でもやる気を削がれるときがあるので尚更考えざるを得ない。そもそもやる気がなくても物事を回せるようになるのが一番よいことだとは思うが、そんなのは恐らく理想論で、どこかしらにやる気がある人がいないと成り立たないのが普通ではないかと思う。株主から社員までやる気ない会社があったら教えてほしい。

やる気を削がない様にするにはどうしたらいいか、結局他人をリスペクトする以外に方法がないのではないかと思う。抽象的すぎて結局何も言っていないような言葉なのだが、僕のなかではこれしか今のところ方法がないように思う。

もう少し具体的に言うと、他人も自分と同じように、何らかの問題意識や考え方、価値観をもって活動しているのであるということを認識し、その点に敬意をもたねばならないということである。

ただここで勘違いしてはいけないのは、問題意識や考え方、価値観の内容にたいして敬意を払うのではなく、それらをもって活動しているということに敬意を払わねばならないということである。

問題意識や考え方、価値観はその人が生きてきたなかで得た経験や知識をもとに形成されるものであり、その内容は時代地域などによって大きく異なる。内容にだけ限っていえば到底受け入れられないようなものが多々あるはずである。

だから敬意を払うべきはその内容ではなく、それを産み出すにいたったその人の人生そのものである。ひとりの人間が今まで積み重ねてきた人生の結果として、今その人はそういう動きかたをしているのだと、そういう敬意をもって人に当たるべきだと考えている。

他人が自分と同じように考えて行動していると理解し、その点に敬意をもって接すれば、きっとなにか接点が見えてくるはずである。その接点こそ人のやる気を削がずに協業するための第一歩であると思う。

 

全然まとまってないのでそのうち書き直す。